世界に音は満ちて
短編  文字数約5000字
著作者:甘木   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
〈ワタシ〉はたった一人で薄暮の世界にいた。
何もない薄暮の世界でワタシに呼びかける声がある。ワタシはその声に導かれるようにして、自分の〈音〉を求めて世界に飛び出した……
世界に音は満ちて
  1 薄暮


『出ておいで』
 音はワタシにいつも呼びかけていた。
 ここは眩しくも暗くもない。ゆっくりとした時間だけが支配する薄暮の世界。
 ワタシはここで独りで、ずっと独りで世界と向き合っていた。
 いつからだろう、音がワタシに語りかけてきたのは?
 音は……誰かが呼んでいるようであり、無秩序に響いているようであり、恐ろしいようでもある。
 ──大切な音なの?
 ──忘れてしまいたい音なの?
 ──憧れの音なの?
 きっと大事なものだと思う。でも、なんの音なのかわからない。
 ──この音は何?
 ──どこかで聞いたことがあるようなきもするけど?
 記憶のどこかに埋まっているようで、いくら思い出そうとしても霧がかかったよう頭の中がぼやけてきて分からない。
 どうしよう……どうすればわかるだろうか……。
 そうだ!
 だったら他の人に聞いてみればいいんだ。


 いまからワタシは音を探しに出かけよう。




  2 カッター


「あなたは誰? 天使?」
 乾いた女の子の声。
 両足を投げ出し、壁にもたれている女の子がワタシを見上げている。奈落のようにどこまでも深く落ちこんでいる黒い瞳。長い髪の毛が床の四方に広がって、まるで水中花のよう。
「ねえ、痛くないの? 手首から血が出てるよ」
「天使……な、わけないよね。私が天国に行けるはずがない」
 女の子は口の端をちょっとだけゆがめる。
「ワタシはワタシ。天使じゃないよ。それより、血、血が出てるよ」
「気にしなくていい。いつものことだから」
 女の子はタオルの上に置いた血だらけの左手を、見せつけるようにワタシの方に差しだす。
「本当はね見た目よりひどくないんだ。カッターで軽く切ったぐらいじゃ人間は死なないんだ。それがわかっているから、やっているんだけどさ」
「何か意味があるの、それ?」
「意味なんて無い。でも……どうしても切りたくなる」
「お母さんやお父さんが心配するよ」
「きゃははははははは」
 狂気じみた笑い声にワタシは後ずさった。


 女の子は血を流したままの手で、何度も何度も髪をかき上げ笑い続ける。血がサーモンピンクの絨毯にも、青いTシャツにも、ライトブラウンの壁にも、点々と小さな染みをつくる。
「絶対にない! 母さんも父さんも私を心配なんかするもんか。真面目でいい子のお姉ちゃんがいるし、私は学校にも行けないで、みんなに迷惑ばっかりかけて……私は失敗作なんだ。きっと二人とも私なんか死ねばいいと思ってる! 私だって死ねるなら死んでやりたいよ!」
 初めて聞いた女の子の生きた声。冷たくて、悲しくて──まるで血を吐くような切なさがこもっている。
「そんなこと言わないで。何か失敗したのなら、やり直せばいいじゃない」
「勝手なこと言うな! 学校に行きたくても行けない私の気持ちなんか知らないくせに! 私だって誰にも迷惑かけたくない……けど、何もできないんだよ……何も知らないくせに!」
 ワタシを見つめる目に涙が浮かび、声が急に小さくなる。
「私だってやり直せるのなら、やり直したいよぉ……」
 女の子の声が小さく弱々しくなっていき、全身からほとばしっていた真っ黒な熱気が霧散した。
 女の子は耳にまだ血が流れる左手を当てて目をつぶる。


 どれだけの時間、女の子はそのままの格好でいたろう。ほこりがうっすら積もった机に置かれたアナログ時計の長針が正反対の位置にきたころ「美希はいい子……美希はいい子……美希はいい子」小さな、本当に小さな呟きが聞こえてきた。
 美希というのかな、この人?
「美希さん、だいじょうぶ?」
 思い切って声をかけてみる。
「手首を切ると、血管が脈打っているのがわかるんだ」
 美希さんは黒くて生気がない目をワタシに向け、
「手首の脈だけが『美希はいい子だよ、本当は美希はいい子なんだよ』って話しかけてくれる。このカッターで手首を切るたびに私を慰めてくれる」
 自虐めいた凍った笑みを浮かべ、美希さんは右手に握ったカッターの刃を何度も出し入れする。
「カッターの刃をね、てぃうてぃうって出していって手首を切れば、誰にも嫌われない美希になれる。身体の中から褒め言葉が聞こえてくる。ほら、また脈打っているよ…………」
 また美希さんは耳に手首を当て目をつむった。


 てぃうてぃう。てぃうてぃう。




  3 秘密


「ねぇ猫さん、教えて欲しいことがあるの」
 ワタシはソファーで丸くなっている猫さんに声をかけてみた。青みがかった灰色と焦げ茶の縞模様、長い尻尾で鼻先まで覆っている毛饅頭みたいな猫さんに。
「猫さんじゃない。僕にはクルツという名前があるんだ」
 猫さん、いえ、クルツさんは尻尾をシャッと振った。薄目を開けワタシを針のように細い瞳で見る。
「へーっ、お姉ちゃん僕らの言葉が話せるんだ。お母さんも他の人間も話せないのに変なの。それにお姉ちゃんから匂いが全然しないよ。お姉ちゃん何なの?」
 身体を起こしたクルツさんは盛んに鼻をヒクヒクさせる。
「わかんない。ワタシはワタシがわからないの。でもね、どうしても知りたいことがあるの」
「知りたいこと? それって面白いこと? 気持ちいいこと?」
 ヒゲが一斉に前に集まる。
 目がまん丸になってちょっと怖い。
「あ、あのね、クルツさんが一番好きな音ってなあに?」
「もちろん『ぺかぁん』だよ!」
「ぺかぁん?」
「そう。ぺかぁん。ぺかぁんと鳴るとね、美味しいゴハンが出てくるんだよ」
「どうやったらぺかぁんと鳴るの。ワタシに教えてほしいな」
「…………」
 ぽふん、ぽふん。
 クルツさんは長い尻尾をソファーに叩きつけるようにしている。ワタシ何か怒らせること言っちゃったかな?
 ぽふん。尻尾が止まった。
「あのね絶対に秘密だよ。他の猫に教えちゃダメだよ。お母さんは他の猫にも優しいから、きっとぺかぁんしちゃうからね」
「うん、絶対言わない。約束する」


「尻尾をピンと立ててね、『うぅんなァァ』思いっきり甘えた声を出して、お母さんの足に全身をすりつけるんだよ。そうするとね、お母さんが『もうお腹空いちゃったの。しょうがないわね』って言って、戸棚から缶を出してぺかぁんしてくれるんだ。でも、お姉ちゃんには尻尾がないからできないね」
 クルツさんは勝ち誇ってヒゲをピンと立てる。
「お姉さんと話していたらお腹空いてきちゃった。お母さんにおねだりしてみよう。それじゃね、お姉さん」
 クルツさんは跳ねるようにソファーから飛び降り、キッチンで洗い物をしている女の人のもとに走って行いく。
「うぅんなァァ」


 ぺかぁん。ぺかぁん。




  4 新雪


「やばいなぁ、あたしもアル中だよ。こんな幻覚が見えるんだもん……」
 あと少しで夜が終わる闇の残滓の中、ワタシとワンピースを着たお姉さんは並んでベンチに座っていた。お姉さんは二十代の終わりだろうか、若さの代わりに労苦と失望が顔に出ている。
「でも、いいか。こんなかわいい幻覚なら。ヨロシクね」
 お姉さんはワタシを見て震える手でVサイン。
「やばい、やばい、まだ手が震えてる。飲み足りないよ」
 コンビニの袋の中ら缶チューハイを取り出して、お姉さんは一気に飲み干す。
「お姉さん。もう飲まない方がいいよ」
 さっきからお姉さんに話しかけているのだけど、ワタシの声はお姉さんの耳には届いていない。お姉さんはワタシに向かって一方的に語りかけてくるだけ。
「あたしもこの歳で人生の先が見えちゃった。疲れたな、故郷に帰ろうかなぁ……ねぇ、あんたはどう思う。あっゴメン、あんたにも一本あげなきゃね」
 お姉さんはリンゴの絵が描かれた缶チューハイをワタシの横に置いた。
「お姉さん、ワタシはいらないよ」
 リンゴの缶チューハイをお姉さんに返そうとしたけど、ワタシの手は宙をかくだけでなぜだか缶をつかめない。仕方がないからそのままにして、お姉さんの独り言に付き合う。


「あたしさぁ、高校を一年で中退して北海道から出てきたんだよ。ファッション関係に勤めたかったんだけど全然相手にされなくてさ、気づけばお決まりの水商売。ここでも適性がなかったのかなぁ……お客さん飲ませる以上に、あたしの方が酒に飲まれてさ」
 お姉さんは飲み干した缶チューハイを握りつぶしてベンチの上に並べる。もう七本。でもまだまだ袋の中にはお酒は入っている。
「このまま東京で歳取って独りで死ぬのかなぁなんて思うと、これまでの二十九年の人生が凄く無駄だったように感じてさ……なんであたし東京に来ちゃったんだろう、東京は全然優しくなかったのに……」
 ハンドバッグからタバコを出したお姉さんは、さらにゴソゴソとハンドバッグを漁る。何かを探している。けど、見つからなかったようで小さなため息をつく。
「ねぇ、あんたライター持ってない? って、幻覚が持っているわけないよね。こんなこと言うなんて、あたし本当にお終いかもしんないな。ははは」
 笑いながらもお姉さんの目が潤んでいる。ライターが見つからなくって悲しいのかな?
 ライターはハンドバッグの横に落ちてますよって、お姉さんに教えてあげたいけどワタシの声は届かない。
「さっき故郷に帰りたいって言ったけど、本当は帰れないんだよね。両親とはケンカして家出同然で飛び出しちゃったし、いまじゃ弟が結婚してあの家の主人だよ。もうあたしがいる場所なんて無いの。でもさぁ……」
 八本目の缶チューハイがベンチに置かれ、こんどはカップ酒に口をつける。
 お姉さん、リンゴの缶チューハイ飲んでもいいんだよ。
「でもさぁ、家に帰れなくてもいいから新雪を踏む音は聞きたいなぁ」
「新雪を踏む音。それがお姉さんの音なの?」
 ワタシは届かないことを忘れて声を出した。


「あんたは知ってる、新雪を踏んだときの音をさ?」
 お姉さんは組んでいた足をほどき、よろよろと立ち上がる。ワタシの方を一瞥してからバランスをとるように両手を広げる。
 よろよろ。
 右手に持ったカップ酒は、半分ぐらい零れちゃったけど気にしていないよう。
「新雪がつもった朝、誰も足跡をつけていない雪を踏むとさ、おぉぐっふ。おぉぐっふって音がするんだよ」
 ヒールの高いパンプスを脱ぎ捨て、右足を少しだけ浮かせて、ゆっくりと下ろす。まるで足の下に、見えない何かがあるかのようにゆっくりとした動作。
「新雪はさ、はじめは粉のように柔らかいのに、体重がかかるにつれ足を弾こうとするように抵抗するんだ。そして風船が割れるみたいに急に抵抗が無くなり足が深く雪に埋もれるの……あの音が聞きたいなぁ……あの音が恋しいなぁ……」
 お姉さんは優しい笑顔を浮かべたままベンチにもたれかかる。
 並べていた缶チューハイの空き缶がガランガランと地面に転がる。お姉さんは気にすることもなく、故郷の音を何度も何度も口にする。


 おぉぐっふ。おぉぐっふ。




  5 薄暮(終わりの始まり)


 ワタシは薄暮の空間の中で膝を抱え丸くなって、聞いて回ったいくつもの音を思い出していた。目をつぶると耳の奥から蘇る音の群れ。
 大きな音。
 小さな音。
 温かい音。
 冷たい音。
 高い音。
 低い音。
 どれも色々な人たちの思い出の音──でも、ワタシを呼んでいた音じゃない。
 すべて他人の音でワタシの音じゃなかった。
 ワタシの音はどこに?




『さあ、時間だ』


 薄暮の空間の中にこだまする声に導かれるようにして、ワタシはゆっくりと目を開ける。
『もう他人の音など探さなくてもいい。これからお前はたくさんの自分の音に包まれるのだから』
「あなたは誰? いつも呼びかけていたのはあなたなの?」
 目の前には誰もいない。淡い光だけが満ちているだけ。
『人間は私のことを〈創造主〉〈神〉〈デミウルゴス〉〈祝福を与える者〉といくつもの名前で呼ぶ。だが私の本当の名前は〈存在しない神〉。そして、お前を呼んでいたのは私ではなく世界だ』
「世界?」
『そう、世界が行うたった一つの奇跡〈無からの創造〉の刻が満ちるのを告げる声だ』
 響いてくる声はとても穏やか。理由は分からないけど、真実を語りかけていることが身体すべてで理解できる。
『もう刻は満ちる。刻が満ちた時、お前はすべてを忘れる』
「忘れる?」
『そうだ。刻は満ちる時、お前が聞いたすべての音は記憶から失われる。お前はもう一度、無から始めなければならない』
「嫌! 記憶をなくしたくない! みんなの音を忘れたくない!」
『もう遅い……刻はきた…………誕生の刻が…………』


 ワタシの聞いた音…………音が………………


 ワタシのすべてが薄暮の中に溶け無に還っていく。


 記憶のかけらが音になって消えていく………………




『ようこそ。苦しみと悲しみの音に満ちあふれた世界に。私はお前を歓迎しよう』


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