再約
長編  文字数約31000字
著作者:LB   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
男の幸せ
女の幸せは
どこで交わるのかすれ違うのは?
大切にすればいいと、誰が決めたんだろう。
それでも、シアワセニナリニ・・・・・・ラクエンヘ
再約
薄暗い独房の中で次々と何かが壊れていくのか?
看守の眼の中で生きている俺を隣に入っている五十位の男が笑っている。
なぁ、御前は何やったんだ?
静かにしろと云う看守の声などまるで聴こえてはいない。
黙ったまま下を向いている俺になおも話しつづける男。
俺はなぁ、何もやってねぇっていってんのによぉ。
看守の怒鳴る声。
男は血のついた口を拭って理不尽だよなぁと呟いた。
白い壁越しに何もかもが伝わってくる事がいやで俺は眼を瞑った。
「よぉ。」
聞き覚えのある声と眼の前を横切る物体。
「面会だ。出ろ」

ツキシマとか云う男に連れられて鉄格子をくぐる。
窓側を向いて寝ている女。
汚らしいシャツを纏った老人。
鉄格子にしがみついて笑っている男―――――――――――――――
看守の愛玩用になっていた女は昨日送検されたんだよ。
夕飯時に隣の男はそう云っていた。

御前は何時も決まった場所に居ないよな。
黒いコートを脱いで鞍岐はそう云った。
そんな言葉で出迎えて欲しくないね。
腰を下ろした俺にさらに続ける。
そう云うなよ。
今日は何時もと訳がちげぇんだ。
眼を上げた俺に一枚の紙を見せる鞍岐。
ところで御前何したんだよ。
煙草を吸おうとした鞍岐にツキシマは禁煙だと声を出した。
ヒトゴロシだよ。
碌なことしねぇな。
笑う鞍岐。
誰やっちまったんだ?女か?
女だよ。
おんなぁ?
愛してた女。
柄に無く「愛」なんて使うんじゃねぇよ。
笑う鞍岐。
時間だと云うツキシマの声が飛ぶ。
席を立った俺に鞍岐は付け加えた。
俺の連絡先だ。出たらこいよ。

相変わらず何も無い廊下が続いている。
さっきの男は知り合いか?
絶えず話し掛けてくるツキシマ。
あいつ、鞍岐とか云ったな。
話しつづけるツキシマ。
しかしなぁ、お前もついてるよ。
止めようとしないツキシマ。
証拠不十分らしいからな。
止めようとしないツキシマ。
無罪判決の可能性、高いらしいって上の連中が云ってたしな。
やめろっ!
何いきり立ってんだよ。
止めようとしないツキシマ。
顔の左半面に伝わる衝撃。
忘れるなよ。お前は俺の飼い犬だ。



お、其の様子だと殴られたんだな。
隣に入っている男は俺を見るなりそう云った。
相変わらず笑いつづけている男。
あいつはもう、いってるよなぁ。ああなったら終りだぜ。
そう云って隣の男は黙った。
再び看守の足音が近づく。
鉄格子を再びくぐった俺を見てさっきまで寝ていた女が声を掛けた。
「あんた、人殺しやったんだって。」
赤茶けた毛布が女の身体を包んでいる。
「単に人殺しって云ったって色んな事情が有るんだろ?」
うるせぇ、黙って寝てやがれ。
隣の男の罵声が飛ぶ。
看守の声。
静まり返る鉄格子の中の住人。

換気扇のような窓から少し光が漏れている。
白い壁から伝わってくる冷気。
けたたましく聞こえて来るサイレンの音。
俺たちだけとっ捕まえたって何にもなりゃしねぇ。
声を張り上げる男。
此処から出せよ。
此処から。
鉄格子に掴まって笑っていた男は看守に手を伸ばす。
出してくれっ出してくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!
静かにしろと云う看守の声が聞こえないほど其の振動が激しい。
俺、オレタ、達は、オナ、おなおなじぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ――――――――――
鈍い音。
飛び散った血液を前にして隣の男は理不尽ってやつかもなと呟いた。

血塗れになって運び出された男に変わってすぐ若い女が入る。
おい、いい女だぞ。
隣の男の声。
お前かわってるよ。若いのに。
少しオトコどもの気が晴れるのとは裏腹に前の女だけが不機嫌になっている。
何さ、あんな小娘一人に。餓えた獣でもあるまいし。
嗚呼、厭だといいながら女は再び毛布をかぶった。

知ってるか?
夕食になると決まって隣の男は俺の横に座った。
何をだよ。
あの、女。ほら、さっき入ったばかりの女いただろ?
カレーから眼を離した俺を見て少し満足そうに男は喋り続ける。
蛎崎ってんだ。あいつがさ、俺の事イイ男だってよ。
返事をしない俺にかまわず男は何か云っている。
薄暗い食堂から食べ終わった者から順序良く出て行く。
一定の空気の流れに対して女の居る場所からは何か違うものが流れ出ていた。
きいてんのかぁ?
食べ終わって席を立った俺に男は声を掛けた。
興味ねぇわ。

就寝時刻の迫った中で流される賛美歌。
看守が歌詞を配っている。
新入りの女も厭そうに歌う。
鳴り止む音。換わるようにして入ってくる看守の声。
イイ女だな。此処のルールってやつを教えてやる。壱、俺にはむかうな。弐、命令には従え。
「ルールなんてあったのかよ。」
そう云った俺に隣の男は初耳だと付け足した。
お前は特別に可愛がってやるよ。
繰返される女に対する陵辱と女の悲鳴。
傍観者、声をあげる者、壁側を向いて寝る者。
過ぎていく時が重々しく感じられる。
こんなトコ居たくねぇよ。
天井に向かって呟いた俺に隣の男も同感のようだった。



朝壱のツキシマの呼び出しがあって俺は鉄格子をくぐった。
看守に連れられていった部屋にツキシマはどっかりと腰を下ろしている。
よぉ。やっと此処から出られるってよ。
煙草を咥えた口が歪む。
失礼しましたといって出て行こうとする看守。
待てよ。
俺の声に反応して看守は少し顔を背けた。
あの女良かったか?
再び失礼しましたといって看守はノブを掴んだ。
あいつ、またやりやがったのか。
ツキシマはそう云いながら書類をまとめている。
もういい。お前も出てけよ。
紙の端を揃えてツキシマはそう云った。
戻ってくんなよ。
部屋から出て行こうとした俺にツキシマは声を掛けた。
あんたの顔なんぞ二度と見たくねぇな。
顔の左半面に伝わる衝撃。
忘れるなよ。お前は今は未だ俺の飼い犬だ。



少し熱い店内で世羅は眼を瞑っている。
あたし、もうダメかな。
ネオン街の薄汚れた風囲気に合っている言葉を吐く。
カシスオレンジから零れ落ちる液を見て笑う鞍岐。
イイ男紹介してやるよ。
イイ男?
腕に巻かれた包帯を気にしながら笑う世羅。
ブランド買ってくれて、高級車乗り廻して、女の扱いに慣れてる―――――――――――――
そんな男たくさんよ。
そう云って世羅は残っていたカシスオレンジを一気に飲み乾した。
御前、男に守ってもらった事あるか?
グラスを壱つずつ拭きながら鞍岐は眼を上げる。
今度は御前を守るだけの男だ。其れ以下でも其れ以上でもない。
そんな嘘ついたってしょうがないでしょ?
差し出されるグラス。

ねぇ、なんだっけ・・・あの、トニックで割ったやつぅ。
世羅の隣に居た女がそう云いながら倒れた。
酒に飲まれるなんざバカのやることだね。
其の更に隣に居た男が女を連れて出て行く。
それにしても、忘れたい事が多すぎよぉぉぉ。
うるせぇな。飲んだら寝ちまえって何回も云ってるだろ?
後で薬やるから、そう云って男の姿は消えた。
「何で鞍岐はこんな店開いてるの?」
差し出されたジンライムを見てからそっと口をつける。
あんたなら何処にだって欲しがられる人材じゃない。
さっきまでグラスを拭いていた鞍岐はレモンを輪切りにしている。
にぎやかだった店内から去っていく客。
一人ずつ居なくなっていく店内を見ながら溜息をつく世羅。
俗に云う人間関係ってのが俺は嫌いでね。
眼を上げた世羅に鞍岐は今日はあがりだ。と云った。



何もなくっても何時だって鞍岐の部屋って暖かい感じ。
世羅の言葉が響いている。
コートを掛けた鞍岐はコップに水を入れる。
部屋を見廻す世羅。
飲むか?
手を伸ばした鞍岐の腕を見て世羅は凝固した。
如何したの?  此れ、義手でしょ・・・
鞍岐の眼を見る。
何で・・・
昔ちょっと吹っ飛ばした。
何時に無く表情が硬い。
刑事やってたんだよ。ありがちな話じゃねぇか。元刑事、事故で腕を無くしたなんてよ。
そう云って鞍岐は義手をはずしてみせた。
世羅の眼。
沈黙する鞍岐。
話題を変えるように世羅はテーブルの上に置いてある写真を手にとる。
少し焦げかかった其れを見て鞍岐は笑った。
そいつだよ。御前を守るだけの男ってのは。
なかなかイイ男だろ?
笑いながらコップを片付ける鞍岐。
世羅の笑い声。
あたしはもっとイイ男、知ってるわよ。



ねぇ、お兄さんっ!寄ってかない?
新宿の裏通りとか、ネオンとか、
久しぶりに見る外の世界が新鮮に映る。
俺の横に何時も居た銀色のサカナが跳ねている事を確認してからカプセルを取り出す。
五萬でいいから。ねっ!
五月蝿く付きまとってくる女。
道端でねっころがっている浮浪者。
携帯を片手に颯爽と歩いていく風俗嬢。
そういやあんな感じだったよな。 俺の、愛してた女は―――――――――――――――――
俺は何をしてやれた?
幸せにしてやれなかった。止めてやれなかった。守る事さえしてやれなかった。
大丈夫?なんかドラックやってる?眼、やばいよ。
どうだっていい女の声。
失せろ、このアマっ!


――――お前だってもういい年なんだから、ちゃんと。
薄暗い部屋。
―――――全部云うんだ。いいな。―――
冷たい鉄格子。
外を飛んで行く蝶。   吹き飛ばされた肢体。
――ダメですね。
           もう、全然。やっぱり一度精神鑑定に――――
壊れていく身体。
身体だけなのか?
意識は、精神は、過去は、結果は、幸せは、未来は、過程は―――――――――――


踊るサカナ。
銀色の。
其れ以外に俺に何が残されてるって云うんだよ。
下らないアダルトビデオ専門店の有る角を曲がる。
何も無い暗い路。
其のずっと奥の外灯に反射しているマンホールの上に転がっていた片は跡形も無くなっていた。


スパラキシスの匂いのする空気。
是ってさぁ、
あの日、ほら、あの結構暑かった日、なんだっけ。
そう、何とかコーポレーションとか云う―――――――――
―――――マンション? ううん、ビルだった――――――――――
其処のいっちばん下の所あるじゃん?
あそこでさぁ、覚えてない?


あの、此処で自殺された方のお知りあいですか?
四十を過ぎた女の声が誰もいない道路に響く。
お気の毒でしたよ。
総てを知っているかのように喋り続ける女。
何も聴こえていない俺を無視して女は続ける。
哩琉ちゃん、お父さん亡くなってから変わっちゃったから。
本当にお気の毒よね、そう云って女は横を向いた。
歩き出した俺の横を歩く女。
今夜は冷えるわね。おやすみなさい。
云いたい事だけ言って去って行く女を見ると総て殺せと云う命令が走る。
思い出したくもねぇな。



野戦病院を少し廃屋にしたようなビルの中で笑う女。
哩琉。
声を掛けた俺を見て女は滑稽だねといった。
猛暑の過ぎ去った廃屋の中は思いのほかひんやりとしている。
握り締めた缶ジュースから水滴が落ちて床を濡らした。
哩琉。
流れ去った言葉を無視しながら笑う女。
滑稽じゃない?
走ってきたせいもあって眩暈を感じている身体。
引きずるようにして女のそばに行った俺を優しく撫でる手。
懐かしかった。
懐かしかった?
繰返される状況だけが女を捕らえている。
隅に山済みになっているダンボール。
コウジの部屋もあんな感じだったよね。
赤くなっている髪が揺れる。
ほら――――――――――何時も、変な薬ばっか入れてた――――――――――

屋上に出ようか。
開けたてのメンソールに火を近づけようとした俺に女は笑ってそう云った。
冷たい白い階段が続く。
隅に溜まったままになっている埃。
背中に走る痛覚。
何やってんだよ。
固定されたままの女の手が背中を触っている。
刺さっている金属を抜きながら俺は女の顔を見た。
何も問い詰める事の出来ない空間が広がっている。

ごめん。
ライターの下で燃えている固形物。
あたし、そんなつもり無かったのよ。
焦げ臭い匂。
未だ、痛い、よね。
塩化ビニールが燃えている。
なんて云ったらいいか。
いいよ。たいしたことねぇし。でも残酷な話だよな。
何が残酷なの?
消えていく煙。
燃え尽きた廃。
ねぇ、何が残酷なの?

男は精神を傷つけ、女は身体を傷つけた・・・―――――
自ら光に吸い込まれていく虫。
こんな事だって過去になっていくんだよね。
少し暖かい空気。
死ぬ時に生き物はみんな一瞬光るって本当なんだって。
熔けて行く翅。
覚えてる?コウジが連れて行ってくれた―――――――――。
吹き飛ばされた肢体。
いい風囲気の。ジムノペディが何時だって流れていた・・・
崩れ落ちていく脚。

幸せだけが残っていけばいいのに。

循環していく水蒸気。
一つになっていく思い出。
時が解決するなんてウソよ。
生きることを苦痛に思ったら。其れから如何したらいいの?
解けてどろどろになった固形物。
生きることを放棄するしかないのかな。
消えていく光。
華麗な蝶の翅。
少しずつ削られていく時間。

落ち着くの。
空が見えるとほっとするのよ。
流されつづける意識。
回転するメロディー。
あたし、高いトコ好きなのよ。
捲れていく花弁。

メロディにのって踊りつづけている道化の人形。
此処から見えるもの総ては何を支えてる?
幸せのために死ぬって馬鹿げてるよ。そんな事、当に知ってる。
少し錆びた手摺に寄りかかる女。
頭で理解してる。其れとはまた、別なの。

鉛色についている未だ乾いてない液体。
ごめんなさい。こんな事を云ってもしょうがないよね。
下らない妄想。
あたしね、幸せに成りたいな。

落ちて来るカケラ。
流れてくるジムノペディ。
綺麗な蝶。
流れてくるジムノペディ。
綺麗な蝶。
ねぇ、此処からだって飛べるのよ。
きっと。
もっともっと遠くに。

流れてくるジムノペディ。
やっと、自由になれる気がする。
幸せに成りに。
ジムノペディ。
楽園、へ―――――――――――――――――――

生きると云う行為は其れだけで罪に成るの?
容の無い翅。
貫通している鉄の棒。
幸せに成るために生きているの?

楽園、へ。

                         シアワセニナリニ―――――――



開店と共に入ってきた客に世羅は嫌悪感を抱いた。
何で朝っぱらから客が入るのよ。
そう云った世羅を見て少し笑う鞍岐。
客は客だ。そう云った鞍岐の視線の先に有る焦げた写真。
其れを手にとって世羅は何時になったらこの男は現れるのよと不満をたらした。
決して派手ではない其の内装が世羅は好きだった。
古ぼけたビリヤード台とか其れとは違ったネオンの効いた看板とか。
「ねぇ、鞍岐は幸せ?」
重なる視線。
不幸、じゃねぇなぁ。
少し間を置いてからの鞍岐の答えに世羅は笑った。
独りで飲んでいた客の声。
「もっとも俺は酒が飲めるってだけで幸せだけどね。」
出て行く男の背中を見ながら溜息をつく世羅。
相変わらず鞍岐はグラスを磨いている。
出て行った男の影が染み付いているドアを見て世羅はマルボロをとった。
出かけんならあんま遠くに行くなよ。
少し目線を上げた鞍岐はそう呟いた。
軽い返事を返して少しアンティークな花瓶に手を伸ばす。
いい香ね。
顔を近づける世羅。
「スパラキシスってヤツだよ。」


再約に添えて―――――――――――――――――――
と、
僕が書き足した事に怒りを通り越して呆れたのか?
其れでも『意志』を貫き通したコウジへの尊敬の意も込めて。
「其れで善かったんだよ。」
コウジならきっとそう云う。




時――葉月 壱拾日と壱余。

場面――白い独房。 サキソホンの似合わない店。

杉本 浩二――二十二才 男。

世羅 琉多――二十才 女。

鞍岐 潤靖――三十四歳 男。




ヤットデテキタノカ。オマエハナニヲスルノモトロイカラナ。
ムカシカラソウダッタ。
コレヲモッテイルオンナヲマモッテクレ。
ソレガオレカラノサイゴノシゴトイライダ。
ホウシュウハコウザニフリコンデオイタ。

グット・ラック!!!





                         
ビルに隠れて空の見えない地帯。
昼間でも割と人通りが多く、ごみごみとしている中。
鞍岐のくれた紙だけを頼りにしながら其の中に埋もれる俺。
信号は青から黄色そして赤へ。
其れを見ていたサラリーマンは其れでいいと呟いた。
少し鼻に残るキャスターの香。
急停止した車が眼に入る。
続いて死体。
俺の横で信号を待っていた老婆の悲鳴。
銀色のサカナ。
残っていた錠剤を口に入れた俺の横で知らない女が彼方よくこんな時に食べ物なんて口に入れられるわねといった。
「そりゃ、人間だかんな。」
腹が空けば喰うのは当然だろう?
再び元気に跳ねるサカナを確認して俺は歩道を渡った。

少ない空。
何時だったか哩琉と行った屋上にはもっと空が広がっていたと俺は実感した。
何が多くて何が少ないのか。
何が正義で何が悪と呼ばれるのか。
一般ってなんだよ。
常識って何だ。

暗い階段を下りた底にたまっている壱拾伍、六の若者たち。
中心に立って血を吐いている浮浪者。
た、助けてくれっ、やめろぉぉぉぉぉっ!
少し反応した俺の眼が若者の一人とぶつかった。
何だこいつ。
空かさず鉄の棒が頭に向かってくる。
肩に走る衝撃。
其れよりも早く噴出している顔面からの大量な血。
コロスゾコノヤロウ?
慣れてんなぁ。ま、助かったよ。
転がっていた鉄パイプを拾いながら男は喋った。
キャスターから流れ出る煙。
俺にも壱本くれよ。知らねぇ中じゃねぇんだから。
男の視線。
煙草を投げ捨てた俺に男は声を掛けた。
俺だよ。檻ん中の旧友だ。

茄原と名乗った男の口から煙がはみ出している。
御前の壱日後に俺も、なんていったっけ、あの・・・そうだっ!ツキシマとかいった奴。
地面に押し付けられたキャスターから悲鳴が聞こえた。
あいつから連絡があってよ。 真犯人 とやらが見つかったってよ。
警察なんてへぼの集団だよなぁ。そう云って茄原は空き缶を放り投げた。
此れから如何するんだと云う俺の質問に茄原は笑った。
まぁ、俺は俺なりにやってくよ。
御前も生きてけよ。そう付け加えて茄原は立ち上がった。
生きてりゃ、いい事だってあるだろ?
お前に指図されんのはご免だな。
通から壱本入った路地に救急車のサイレンが響く。
其の音に気を取られながら俺はメモをもう一度確認した。
人通りの消して多いとはいえない路。
戌の声。
他には?
前から歩いてくる女のキャミソールの色が眼を引く。
少し疲労を残した眼が俺の顔を捉えた。
「おい、イイ女だぞ。」  茄原の声。
前にもいたよなぁ、あんな感じの女。
そうそう、蛎崎ってヤツだよ。
笑っている女。
ねぇ――――――――――――――――――――――――――――
近づいてきた女の声。
あんたなんでしょ?
封が切られたばかりのマルボロに手を伸ばす。
遅かったじゃない?待ってたのよ。鞍岐に云われて。
マルボロから細かくなって地面へとこぼれて行く灰。
碌なことしねぇな。
いいじゃない。笑いながら女は煙草を口につけた。
以上でも以下でもないんでしょ?
歩き出した女の背中を見ながら俺もキャスターに手を伸ばした。

コンビニの角を曲がる。
寂びれた店の並ぶ中を女は振り返らずに歩いている。
こんなトコにある店じゃ、何時潰れてもおかしくないよなぁ。
ジャンパーに手を突っ込んでいる茄原は辺りをしきりに見廻した。
そんな事も無いよ。
少なくてもあたしは鞍岐の店、イイと思うな。
あんたもそう思わない?振り返った女はそう付け加えた。
さぁな。
俺の返答を聞いて直ぐ茄原は口を開いた。
おまえなぁ、レディにはもっとやさしく接するもんだぜ。
女はマルボロを投げ捨ててからそうねと呟いた。
再び響くサイレンの音。
近くなったり遠くなったりしている其れを聞きながら俺も煙草を投げ捨てた。
馬鹿みたいに書いてある『ポイ棄ては止めましょう!』の文字が飛び込んでくる。
サイレンが行き来している中で女は急に立ち止まった。



朝壱の客が出て行ってからも未だ鳴っているサキソホン。
其れを聴きながらグラスを拭く鞍岐。
上々だ――――――――――――――――――――
使ったままになっているビリヤード台。
気分は最高――――――――――――――――――――――――――
男が飲んだウイスキーのボトル。
此の侭突っ走ろうぜ―――――――――――――――――――――――――――
タオルが手から垂れ下がっている。
絶好調の午前ラグタイム。
此の侭だったら。
此の侭だったら―――――――――――――――――――
手から滑り落ちるワイングラス。
ドアを開けて入ってくる男たち。
煙草の匂。
此の侭だったら――――――――――――――――――――――
銃を抜く男たち。
殺されてたまるかよっ!
身体中に走る衝撃。
熱い身体を押えながら応戦する鞍岐。
「殺されてたまるかよ・・・」
色々な音が交じり合った店内。
例えば、銃の音だったり、呻き声だったり―――――――――――――――――
割れる音だったり――――――――ボトルが?
何だっていい。
引き金を引く指。
眼の前から消えていく敵。
錆びた鉄の匂―――――――当に嗅ぎ慣れたと思っていたのに。
手から離れる銃。
「殺されてたまるかよ。」



急に立ち止まった女を見て茄原は声を掛けた。
おいおい、路解かりませんなんて云うんじゃねぇんだろうなぁ。
分かんなかった方がましだったわよ。
走り出した女に警官が関係者以外は下がってくださいと告げる。
腕を振り解いて中に入っていく女。
上々だ。
一面に飛び散っているぬるっとした液体。
気分は最高。
割れたガラスのカケラ。
此の侭突っ走ろうぜ。
凍りついたまま動かない身体。
鞍岐―――――――――――――――――――――――――――
隅の方に立っている男。
口から血液と共に食み出しているセヴンスターが煙を排出している。
手錠のかかった義手。
世羅を見る笑っている眼。

何があったんだよ、うわっ、ひでぇな。
店の中に入った茄原はそう云いながら眼を背けた。
固まったまま動こうとしない女。
穴の開いた身体を引きずる鞍岐。
なかなかのモンだろ?
開いた口と同時に床に落ちるセヴンスター。
やっぱ刑事やっててよかったよなぁ。
床に垂れる血液。
あんた一人でやったのかぁ?すごいな。
喋りつづける茄原。
倒れている男。
刑事ってこんなんで役に立ってんだ。俺もやってりゃよかったなぁ。
パンと云う鈍い音。
笑いながら倒れる茄原。
床に転がっている男の手から銃をもぎ取る警察。
血だまりの中に同化した茄原。
殺されてたまるかよ。

其れっきり動かない茄原を見て鞍岐は理不尽だと呟いた。
警官に付き添われて出て行く。
頼んだぞ。
背中から漏れる声。
黙ったまま立ち尽くす女。
俺の顔を見て笑う鞍岐。

Good Luck!!!



換気扇のような窓を見て蛎崎は満足そうな笑みを浮かべた。
少しひんやりとした白い壁の中にある美しいデコレーション。
ね、云ったでしょ?
呟いた言葉が窓からゆっくりと出て行く。
何も無くなった独房を見て満足したと付け足す。
何も喋ろうとしない住人。
未だ冷たくなっていない死体が足元に転がっている。
手に残っている感触。
ずっしりとした銃の重み―――――引き金の冷たい感触―――――――衝撃―――――
腕に微かに残る其れを確かめるようにして蛎崎は再び引き金を引いた。
指先から手首、腕を伝わる心地よさを求めた。
鉄格子を潜りながら新しい弾を詰め替える。
そして繰り返し。
倒れていく住人たちを見ながら蛎崎は笑った。
赤茶けた毛布に包まっている女の叫び声――――――――
あたしが何したってんだよぉぉぉっ、やめてぇぇぇぇ、撃たないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!
軽い音に続いて一面に飛び散る液体。
頭の真中に穴をあけたまま女は倒れた。
「あんただって人殺しじゃない?」
女を撃ったばかりの銃を耳へ。
耳から少し離れたところにある銃口がさっきよりは大きく見える。
再び伝わる感触。
吹っ飛ぶ意識。
あたしも人殺しだから。



だから、云ってんだろ?蛎崎のやったことなんだよ。
田久保と名乗った蛎崎の隣の生き残りが腕を押えながら喚いている。
なんだか俺にも訳がわからないんだよ。
ただ、そう云ってから下を向く。
看守の暴行から逃げたかっただけじゃねぇのかな。
人殺しには変わりないだろと云うツキシマの声。
そりゃ、そうだけど。
看守の銃とって撃ったなんてなぁ、女だからって見くびったらダメだな。
何も答えようとはしない住人達。―――――――――――まぁな、だって死んだんだから?
血の匂いの充満している中から一人一人の死体が運び出されていく。
部屋から出て行くツキシマに田久保は声を掛ける。
あんただってこいつらと同じなんだよ?

部屋に戻ったツキシマはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
火をつけたばかりの煙草から煙が天井まで延びている。
蛎崎か。
何もない頭の中を駆け巡る言葉。
いい女だったよな。
俺もあいつ等と一緒なのか?
忙しなく階段を駆け上がってくる音。
段々と近づいてくる音に反応してツキシマはドアのほうを見た。
「手、空いてますか?」
入ってきた少し杉本に似ている男が口を開く。
さっき、殺人があったんですよ。
黙々と其の状況と犯人について告げる。
「まぁ、暴力団関係ですからね。」
そう云って男は苦笑いをした。
名前、なんて云うんだ?
煙草を口から放したツキシマは再び男の顔をみた。
「鞍岐 潤靖――三十七歳 男。であります。」

『相変わらず何も無い廊下が続いている。
さっきの男は知り合いか?
絶えず話し掛けてくるツキシマ。
あいつ、鞍岐とか云ったな。』
そんな過去に起こったセリフが利かなくなったテープのように廻っている。
近づいてくる何も無い取調室と云う名目の箱。
拒絶している自分を押えてツキシマは中に入った。

つんとした何か何時もとは違う空気が流れている。
安っぽい椅子に深く腰掛けている鞍岐。
何突っ立ってんだよ。
鞍岐の声に一瞬意識が引きずられる。
俺を取り調べに来たんだろ?
笑う鞍岐に何がおかしいんだと警官が机を叩く。
もう、出て行っていい。
少し不満を残しながらもツキシマの言葉に従う警官。
ドアが開いて何時もの空気が少し入る。
再び密室になった箱の中でツキシマは鞍岐を見た。
「あんた、元刑事なんだろ?」
在り来たりなセリフに笑う鞍岐。
ああ、そうだよ。笑い声の合間に飛び出す言葉。
「何で殺しやったんだ?」
鞍岐から幾分視線を落とす。
何で?って云われたってなぁ。殺されるのはごめんだって云う脳からの命令だよ。
腕からはみ出している包帯。
刑事だからって人を殺さないとは限らないだろ?
続ける鞍岐。
俺だってやりたくてやったんじゃ、ねぇよ。
鉄の柵が附いている窓を見ながら鞍岐は溜息をつく。
正当防衛だな。
其れに、そう続けて鞍岐はツキシマの顔を見た。
お前だって俺等と同じ人間なんだよ。



お前だって俺等と同じ人間なんだよ。
罪の意識を認識させる薄い独房。
ひんやりとした床からは得る物は何も無い。
替わりに体温だけが少しずつ染み込んでいった。
外をちらつく男。
―――――なぁ、お前はそんなんでも生きてるって状態にあるんだよ。
説得力に欠けた言葉が何時間も耳を覆っている。
―――いい加減にしとけよ。
窓の外から僅かに入ってくる光の位置だけが確実に変わっていく。
何時になっても変わらない男の表情。
 完全にいっちまってるな―――――

  ――いっちまってる?―――――
    オレがか?
                  生キル、状態ナノカ?
      ダッタラ俺ガ存在シテイタ理由ハ?
                          無。
         生キテイタ証ハ?――――― 
   ―――「無」ナノカ?
                   意味ガ無イ。
         生きる意味なんてねぇじゃねぇかっ!

確実に具体化されていく現実。
其れに隣接している夥しい数の過去。
夕日の差した箱の中で影が動く。
行ったり来たりしているツキシマが笑っている。
もぅ、いいよ。お前取り合図檻ん中はいっとけ。
腕に残る感触。
俺の手を掴んだ男たちが早く立てと指示を下す。
何も無い廊下。
白い壁の部屋がしっかりと用意されている。
新しい住人か。仲良くしようぜ。
俺の隣に入っていた男が笑いながらそう云った。
赤茶けた毛布をかぶって寝ている女が眼に入る。
鍵の閉まる鈍い音がする。
おマエェェェェぇぇも、おなじぃぃぃぃっひぃぃぃっ!
鉄格子に掴まって何か云っている男に看守が静かにしろといった。
ぉおまえぇぇだってぇぇぇぇ、オレェおれぇぇ、らと、お、オナ、じぃぃぃぃぃぃっ!



お前。
鞍岐を見上げながらツキシマは口を開いた。
お前、杉本の知り合いだったよな。
だったらなんだよと云う声が鼓膜に跳ね返る。
いや、云いかけて止めたツキシマを見てなんなんだよと鞍岐は呟いた。
もう、いい。
少しの沈黙の後に続けるツキシマ。
取り合図檻ん中に入ってろよ。
何事も無かったかのように入ってくる警官。
全開になったドアから入ってくる空気が意識をはっきりとさせた。
鞍岐。
背骨に響く声に振り返りながら鞍岐は笑った。
なんだよ?
振り返りながらツキシマも其れに合わせるかのように笑った。
「杉本はお前のコピーだろ?」



「余色って効果有るかしら。」
手首に垂れ下がっている布を弄りながら女は横を向いた。
補色じゃないのか?
何か変な機械に指を突っ込んでいる俺はボトルを取った。
なんだっていい、其れより、あたしの事疑ってないの?
怯えたような声を上げて女は俺を見つめている。
疑う?
思わず女の眼の中を透かした。
云ったろ?俺は、ハンザイシャだって。
女からの返事は無い。
替わりに女は布を床に投げ捨てた。
此れでいい?
繋ぎとめられた言葉に反応するかのようにゆっくりと機械から手を離した。
いいんじゃない?
手首を伝って血液が床に零れて行く。
彼方って冷たいのね。
そう云いながらも笑っている女。
コウジ。
聴こえる事の無い言葉が静かに背中に突き刺さる。
反体制なんてどうせ惨めな事よね。

暖かかった部屋を見廻しながら女は眼を閉じている。
『鞍岐の部屋って何もなくっても暖かい感じ。』
キャスターを加えている口元を見て女もマルボロを咥えた。
何で務所なんかに入ってたのよ?
ライターを近づけてからゆっくりと離す。
「殺し。」
鞍岐の部屋にあった銃を弄りながら俺は答えた。再びテーブルに置かれた銃がごとっと鈍い音をたてた。

転がっているドライバー。
ねぇ、何か無いの?
ソファーに寝っころがりながら女は云った。
傍の机に置いてあった紙は音を立てて床に崩れていく。
此れ、何なの?
少し不機嫌そうに俺は女を見つめた。
相変わらずのスカルプチュールだけが部屋の隅に無造作に転がっている。

是の分解の仕方だよ。
銃を突き付けられている女の顔からは焦りは感じられない。
恐くないのか?
突入部隊でもないのに――――――――。
クスリの瓶。
サカナのいない水槽。

第壱、そんな銃撃ったら手首折れるわよ。

壊れている写真立。
明らかに足りない部品。

口径も、パウダーの量も半端じゃないわ。  プロ専用でしょう?

――――あんたに使いこなせるの?
そう云いながら女は落ちている紙を拾っている。
―――――試してみるか?    
何処からか流れ込んでくる音。
敏感に反応する俺に女はゆっくりと拾い終わった紙を渡した。
手から離れる銃。
錆びているドラム缶。

鞍岐どうなるの?
銃を弄りながら女は俺を見た。
さぁな。
ただ―――――――――――――――正当防衛だろ。
錠剤を口に入れる。
水槽から抜け落ちた魚が跳ねている。
「あたしも人殺しだから。」

ヨウスルニニンゲンナンテダレカヲギセイニシナイトイキテイケナインダヨ。

電化製品だけが規則正しく動いていた。
パソコンの画面には何も映し出されていない。
狂ったリモコンだけが置いてあるだけのテーブル。
同居しているビールの缶だけが共存していけることに間違いは無いように思われた。

あたしね、
錠剤を口に含んでいる俺の横で女は口を開いた。
あたし、幸せに成りたいな。
少し上を向いている女の顔に日が当たっている。

キャスターを取り出す。
壊れかけの冷蔵庫の音が厭に耳に附いた。
下を向いたまま眼を瞑っている女。
焦げた鞍岐との写真が置いてあるテーブルを見ながら再び火を近づける。
女の顔。
ねぇ―――――――――――――――――――――――――
開かれた眼。
あの写真に映ってる人コウジの女?
ああ、そうだよ。
細かくなった灰が静かに床に落ちていく。
「あたしの方がイイ女じゃない。」



「あたしってイイ女かな。」
ジムノペディが耳に纏わり附く中で笑っている女。
独りでウイスキーを飲んでいる男の後ろで鞍岐がシェーカーを振っている。
テーブルの真中に置かれた肉料理からいい匂いが漂う。
コウジの横顔って好きだな。
ワインに手をつけた女が呟く。
肉を切る為に動かされている俺の手。
十分なんじゃねぇのか?
何が―――――――――――――――――――
イイ女に成ったよ。そう云った俺を見て再び笑う女。
指にはまっているシルバーが光る。
グラスに液体を移す鞍岐。
ねぇ。
黙ってワインを飲んでいた女は顔を向けた。
あの人かっこいいと思わない?
さぁな。
冷たく言放たれた一言を聞いてから女は普通はもっと優しく接するものよと笑った。
さっきとは切り替わってサキソホンが鳴っている。
グラスに入っている白ワインを傾けながら女は下を向いている。


『何でペッパーのかかった肉に白ワインなんでしょう?』
馬鹿にした言い方でテレビの中の男は笑う。
『はい、胡椒の辛さを白ワインが冷やしてくれるんですよっ!』
いやぁ、肉には赤なんて云う常識は持っちゃダメ――――――――――――――――――――
だめだめだめだめだめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!


コウジ?
銀色のサカナの尾びれが頭を蹴る。
女の不安が溢れる顔が正面に見える。
コウジ?
反復されている名前が耳の中に入ってきている。
肩に触っている触感が生々しく感じられた。
サカナ。
鞍岐の御待たせ致しましたと云う声。
半ばはっきりとした意識の中で漸くサキソホンの音が戻ってくる。
何回も鼻の奥にしみた匂。
鞍岐の運んで来た水色の液体に口をつけてから女は笑う。
あの女の人すごく綺麗な声ね―――蝶みたいな―――透き通ってて―――――――――
ねぇ、そう思わない?
咽喉の奥に消えていく液体。
サキソホンに混じって鳴っているピアノ。
そうだな。
ワインのコルク。
端においてあるピアノから弦の弾かれるような音がしている。
歌う女。
『そして、吹き飛ばされた肢体。』

水色の液体を身体に入れてから席を立つ。
行こうか。
ハンドバックとカーディガンを持って席を立った女はそう云った。
ありがとうございましたといって頭を下げる男。
なぁ。
財布を見ながら声を掛ける。
何か?
男の不満気な顔。
イイ女だな。歌ってるやつ。
少し笑って男は付け足した。
「俺の女だかんな。」



乾電池の弾け飛ぶような音。
其れが鳴るのとほぼ同時に鞍岐は眼をあけた。
死んだ女の肌のような色の床と壁が続いている。
隙間だらけの独房の中で前に入っている男が鞍岐を見た。
あんた、信じられるか?
少し眼を上げた鞍岐に男は尚話し掛けてくる。
昨日此処で殺しがあったばっかなんだよ。
看守の目線が向く。
少し声を落としながら喋りつづける男。
嘘じゃねぇよ。ほら。
そう云って捲り上げられたシャツの袖から白い布がはみ出す。
しかも、やったのは女なんだ。あんなイイ女が殺しなんてな。世の中わかんねぇよ。
そう云って少し笑った男に看守が喋るなと怒鳴った。

近づいてくる足跡に敏感に看守は反応を示した。
敬礼をしながらご苦労様ですと呟く。
よぉ。
入ってきたツキシマを見て鞍岐は笑った。
俺はもう釈放になったんか?
下に向けていた視線を鞍岐の方へ向けて喋るツキシマ。
俺の顔はそんな風に見えんのかよ。
ただ、そう云ってツキシマは鉄格子のカギを開けた。
ただな、人間の立場ってやつはわかんねぇなって思ってよ。
出ろよ、鞍岐サン。
看守が鞍岐を急かすように腕を引っ張る。
其れを振り払って鞍岐は鉄格子を潜った。

入れよ。そう云ってツキシマはセブンスターを取り出した。
禁煙じゃねぇのかよ。
ツキシマに背を向けて鞍岐はノブを握った。
禁煙じゃねぇんなら、後で俺にも壱本くれよ。
そう云って鞍岐は中に入って行った。
「馬鹿。禁煙に決まってんだろ?」

隔てられた一枚のガラスが距離を厚くしている。
入ってきた鞍岐はゆっくりと座りながら立場ってヤツはわかんねぇなと云った。
鞍岐。平気なのか?
最高に居心地の悪いホテルだよと鞍岐は笑った。
入ってくるツキシマ。
久しぶりじゃねぇか。戻ってきちまったかと思ったんだぜ。
下を向いている鞍岐。
それ以上喋ろうとしないツキシマ。
鞍岐?
時計を見てから俺は鞍岐に視線を移した。
店において有るピアノ、今は使ってないのか?
鈍く反応した鞍岐は再び笑った。
ああ。歌い手が居なく成っちまったからな。
隅の方でじっと女が会話を記録し続けている。
あの綺麗な声の女だろ?
意識の帰還。其れと同時に俺は席を立った。
鈍い音を立てて椅子が後方へとずれる。
居なくなったって・・・お前の女じゃねぇのかよ。
そうだったよ、そう云って鞍岐は眼を瞑った。
ゆっくりと座った俺に鞍岐は続ける。
別にふられた訳じゃねぇんだ。ま、裏切られたってトコか。
意識を引きずられながら俺は目線を落とした。
「俺も人殺しだかんな。」

時間だ。
ツキシマが席を立ちながら鞍岐の腕を掴む。
鞍岐。
背中を見ながら俺は呟いた。
それ以上何も云わない俺に鞍岐はじゃあなと言った。

何も無い白い廊下を歩く。
反響している靴の音だけが聞こえる。
今までに見てきた光景が廻っている。
薄暗い独房―――ヒトゴロシ―――アダルトビデオ専門店―――四十を過ぎた女―――浮浪者―――マルボロ―――鞍岐の薬指にはまっているシルバーの指輪。
俺も人殺しだといった鞍岐の顔――――――――――――――――――――――
肩を叩く男。
誰だ?
声を掛けてくる男。
誰だ? 誰なんだよ。ダレダレ誰々誰誰だれだれダレダレ誰々だれだれ―――――――――
杉本と云う声。
ツキシマ。
セヴンスターを咥えながら眼の前にツキシマが立っている。
鞍岐からだ。
そう云ってツキシマは背を向けた。
心配すんなよ。あいつは正当防衛だ。
そう云ってツキシマは笑った。
其れと――――――――――――――――――――――――――――
振り返ったツキシマが付け足す。
「お前、コピーだろ?」



I myself killed only LOVER.
そう書かれた店内にあるボードに眼を向けながら世羅は溜息をついた。
昨日までの少しだけ荘厳だった店内に、今は血のデコレーションが加えてある。
警察の去った店内に未だ生々しく残っている銃弾の跡。
笑っている鞍岐の顔が浮かぶ。
さっき杉本の部屋に運び忘れた鞍岐からのメモ。
「ねぇ、幸せだった?」
其れを見て世羅は笑った。
確実に変わっていく何かが世羅を見下ろしている。
「幸せだったの?」
何も無くなった店内に響く声。
割れているボトルとか、粉々になったグラスとか何かそう云うものが鞍岐を表しているような気がした。

金具のいかれているノブに手を掛ける。
中で立っている女。
メモを渡しながら女は下を向いた。
鞍岐元気だった?
震えている声が女の状態を象徴している。
最高に居心地の悪いホテルだってよ。
キャスターを取り出す。
暗黙の了解のように女は笑った。
店内、掃除しなくちゃ。鞍岐すぐ還って来るもんね。
そう云って女は中に消えていった。
何も無くなった店内を見廻す。
夕日が差している窓から蝶が入ってくるのを俺はじっと見ていた。
見当たるはずも無い鞍岐の姿。
眼の前で死んでいった茄原。
届かなかった僅かな距離――――――――小さくなっていく哩琉の手――――――哩琉?
コウジ?
金属のバケツが夕日に光っている。
手伝ってよ。
マルボロのはみ出している口から零れ落ちる言葉。
早くしないと、鞍岐還って来ちゃうよ。ねぇ―――――――――――
続かない言葉を聞いてから作業に取り掛かる。
黒くなった血液。
壁に開いたまま塞がらない銃弾の跡。
ツェーとベーの音が失われたピアノ。
影が移動していく。
何も話そうとしない女。
床にこぼれて行く灰を見ながら俺は口を開いた。
何で鞍岐があんたを俺に頼んだんだ?
状況判断できないの?
女の鋭い視線が肩辺りに突き刺さる。
キャスターを咥え直した俺に女はあたし人殺したのよと付け足した。



薄暗い白い壁を見ながら鞍岐は写真を取り出した。
寒くなっている独房の中で、たまに響く看守の足音だけが聞こえた。
笑っている女。
隣に入っている男が寒いなと呟く。
笑っている女。
セヴンスターの懐かしい香。
女の笑った顔が頭の中で固定されている。
新聞の切れ端を取り出す鞍岐。
撃たれた肩に走る激痛が意識をはっきりとしたものにしている。
「何で病院行かなかったのよ。あんた死ぬわよ。」
笑っている女。
未だ新しさを保っている新聞の文字を一つひとつを眼で追う。
『看守の横暴!警察の中にハンザイシャ。』
元看守の写真が大きく載っている。
『事件は今回の看守殺害事件で発覚し・・・・・』
笑ったままの女。
また看守の足音が聞こえた。
もうすぐ賛美歌を歌う時間だからと云う声。
『・・・更に、この看守はレイプだけでなく男性を一人殺害しています。』
被害者は?
被害者は?
被害者は―――――――――――――――――
覚醒剤中毒だった。
そうだったよな―――――――――――――――――――――――――
『鉦元 尚夫さん 三十七歳 です。』
被害者は?
おまえじゃねぇだろ?
なんだよな――――――――――――――――――
写真が手から落ちる。
何事も無かったかのように鞍岐は上を向いて横になった。
きちんと伸ばされたシーツから冷たい感触が伝わってくる。
薄くなっていく意識が感覚だけを敏感にさせている。
悪かったな―――――――――――――――――――――
一人にしちまって―――――――――――――
俺――――――云ったのにな――――――――――――――――――
傍に居るって―――――――――――
―――――――――
ただ、――――――――――死んだよ――――――――男が。
オマエヲコロシタオトコハタシカニシンダ。

――――――――――だから。
もう、――――いいよな――――――――――オレ、
今度こそお前の傍にいてやりたいから。



人殺しはみんな死んでいくんだよな。
セヴンスターを咥えた口から煙が少し出ている。
報告書をまとめながらツキシマはラガーを取り出した。
虫の声が耳に附く。
仕事がはかどらないのに反比例して煙草の数だけが順調に減っている。
だから俺は夏は嫌いなんだよ。
そう呟いてツキシマは煙草を灰皿の中に突っ込んだ。
忙しなく階段を駆け上がってくる音。
段々と近づいてくる音に反応してツキシマはドアのほうを見た。
「手、空いてますか?」
入ってきた少し杉本に似ている男が口を開く。
鞍岐元刑事の死亡が確認されました。
「死亡だぁ?」
新しい煙草が口から落ちる。
少し離れた所に立っている男は黙々と事実について喋っている。
はい、死亡原因は出血多量によるもので、推定時刻は・・・
「もう、いい。」
少し疲れた表情を浮かべながらツキシマは新しい煙草を咥えた。

冷たくなった身体が転がっている。
何をしても反応を見せない死体がツキシマの足元に転がっていた。
鞍岐。
応答の無い事を確認してからそっと手を近づける。
既に死後硬直の始った身体から次第に抜けていく体温。
外に運び出されていく鞍岐を見て田久保は処刑場だと呟いた。

冷たいドアノブを掴んでツキシマは其れをゆっくりと右へ廻した。
煙草の煙の充満している部屋から少し匂いが漏れる。
軽くセブンスターを咥えながらツキシマは再び報告書に眼を通し始めた。
笑っている鞍岐。
「なぁ、お前、そんなんで幸せだったか?」
机の上に投げ捨てられた報告書。
微妙な音を立てて廻っている換気扇。
こんな塵溜みてぇなとこで死んだってよかったんかよ。
杉本に似ている男が失礼しますといってドアから入ってくる。
一枚の紙を置いて出て行く男にツキシマは声を掛けた。
お前、人殺した事有るか?
いえ、本官はそのような事は決して・・・
そう云って男は消えていった。
再び短くなったセヴンスターを咥えなおす。
真っ直ぐに煙の立ち上っている天井を見ながらツキシマは笑った。
「葬式にはダースで持ってってやるよ。」
どっか連れてって。

其れを聞いて俺は一瞬動きを止めた。
――――――あたしね、今日誕生日なんだ。

床に転がる。
煙草を咥えたままの口は何も告げようとしない。
そんな俺を見ての横で女は笑った。
さっきとは少し違う余所行きに服に着替えながら女は下を向いた。

「コウジは幸せだった?」

外を見ていた視線は女に焦点を合わせている。
幸せってのは、独りじゃ成れないもんだろ?相方だったやつに訊いてくれよ。
ワイシャツに袖を通しながらそう答える。
だったらあたしは幸せじゃないのか。
少し当惑した意識にサカナが同化していく。

あたし、片思いでも十分に幸せよ。

景色の揺れとか、変に近代化したビルとか。
其れを見ても表情は何一つ変わらない。
口の周りにはセヴンスターの匂いが僅かに残っていた。
窓の外から聴こえる笑い声。
冷たい空気だけが車内に循環している。
ウインカーの光が前の車に反射して少しだけ眼を閉じた。
小さく舌打ちをする。
女も其れにつられて俺の顔を覗いた。
小さく光る窓ガラス。
割れて色に成って行く光が少しだけ明るくしたような錯覚に陥りそうになる。

コウジ?
反射が正しく記憶を導いていく。
今までの思い出ってなんだろうね。
先週と同じテレビのドラマ。
善い人。とか偽善者とか、あたしには何一つ要らなかった・・・
移動できない変更された詞書。
苦痛は思い出になるの?
風に流されている水蒸気。
「幸せ」に成りたいよね。
――――――――――――シアワセニ。
窓の外を見ている女。
床に転がっている煙草の箱とか、要らなくなった思考。
おまえが持っていけよ。   俺はいらねぇから。

ホント云うとね、あたし十分幸せなんだよ。
コウジ。

少し冷たい水が無理やり咽喉に流れ込んでいく。
普遍なんだか、替わり続けているのか分からない感覚が身体を浸していった。
あたしね、
女は喋りつづけている。
去年の誕生日は飼ってた戌と二人だったんだよ。
でもね、
壊れつづけている抱。
ううん、なんでもない。

高速道路の下の路。
繋がっている空。
棚引いている風に乗った鳥が上空を旋回している。

バックミラーを少し直してから愛車を降りる。
笑っている女の顔。
座り込んでいる女子高校生が視線を向ける。
ひんやりとした空間に響く声を聞きながら歩きつづける。
鞍岐。
横を向いたまま喋る女。
鞍岐、大丈夫かな。
不安を残した女の声が再び響く。
あいつ、殺したって死にそうにねぇじゃねぇか。
女の声よりもはるかに大きく反響した声を聴いてさっきの女が俺らを見た。

階段の途中で女は止まった。
ねぇ、あの人――――――――――――――
微妙なアクセントが耳に入ってくる。
海風の匂いが鼻につく。
階段の一番上で立っている男。
――――――――ツキシマ―――――――――――――――――
少し疲れた表情をしながらツキシマはセヴンスターを咥えている。
神出鬼没やろうっ!いや、
何であんたがこんなとこに居るんだ?
俺の声に合わせるかのようにゆっくりと息を吐くツキシマ。
イイ女だな。
俺の隣に立っている女を見てツキシマは笑った。
お前の女か?そう付け足してからセヴンスターを投げ捨てる。
何が云いたいんだといった俺にツキシマは守ってやれよと付け足した。
冷たいものが背中を走るのとほぼ同時にツキシマは再び口を開いた。
「鞍岐が死んだ。」

広がっていく汐。
無くなってしまった「眩。」
笑えない逝。
止められない幸への追求。

響いていく声。
無理やり停止された意識。
転がっている才能のかけら。
人工的な景色。

状態として生きているって事よ。
薄暗い水。
少しずつ掛け離れて行く現実。
女の横顔から其の事実が惜しげもなく伝わってくる。
煙草を手に取る。

生きていることは状態?

噴水の傍で遊んでいる子供。
ベンチで寝ている浮浪者。
翠しかない空。
どっちだっていいよね。幸せなら。
噴出した水を見て女は横を向く。
円い輪を口に入れる。
半端にさえならない時間の経過。
ありがと。色色、ね。
そう告げてから女の口は開こうとしない。

替わっていく銀の紙が目の前をちらつく。
段段サカナになっていく其れが無性に恋しかった。
時どき変だよ。
脳に飛び込んでくる女の声。
脳の血管を埋め尽くしている記憶から弾き出される信号。
幸せならいいんだろ?

高級車が隣を通る。
黙っていた女は理不尽よと呟いた。
感覚の抜けていく指。
上々だ―――――――――――――――――
気分は最高。
「少なくともあたしは悲しんでるよ。」

少しだけ飛び出している人工物。
いわゆる新化って奴だよね。
汚いガラス越しに観覧車を見つめている女。
手元の青いミズから垂れていく液。
脂っこい食物が少しずつ喰道を通って胃に入っていく。
綺麗だよね。
反響していく記憶。
前とは違ったのに――――――――――

前だったら少しは笑えたの?
冷たい風をよけるようにして女はそう云った。
好きだったんでしょ?大道芸人とか、ねえ?
伝わらない革命だけが空虚を廻る。
ありがとうございました。と云って帽子を持っている男。
五百円玉を投げる。
なんだぁっ!やっぱり好きなんじゃないっ!
鈍く光った其れを見て女は満足そうにそう云った。

光に吸い込まれていく感情を取り戻すかのように眼を瞑る。
起こりうる確立と線路状の意識。
少し暗い誰もいない路。
栓の途切れたアルコール。
少しずつ提供されていく知識だけが頭を埋め尽くす。
所有物ではない事を願って――――――――――
事実とは少し異なっている真実って美しい?

ねぇ、如何して外見ないの?
空気の密閉された中で響く女の声。
眼を合わそうとしない俺に女は高所恐怖症なんでしょと付け足した。
いいじゃない、飛降り自殺とかしなくてすむんだから。
現実味を帯びた言葉がさらに響く。
零れた視線から飛び込んでくる光。
ネオンだったり、外灯だったり、何か人工的な。
人間の自殺願望なんてふとした事で出て来るんだよ。
そう云った女の顔が半分透けて見えるガラスに映った。
矛盾を生む空間。
強調されていくリアリズム。
シアワセだったか?

鞍岐、死んじゃったんだよね。
女の声が直接脳を揺さぶる。
注がれる冷え切った視線。
肺の中に溜まっていた酸素を吐き出しながら外を見た。
中の何も無いコップ。
花瓶と呼ぶには汚すぎた入物。
無に孵っていくだけのコトダマ。

ねぇ、聞いてる?
グラスから離れた唇。
あたしの事匿ったりしてほんと平気なの?
再びグラスにつけられた唇はそっと上下に動く。
いやよ。死にました―――――なんて。
そんな言葉で済まさないでね。
咽喉を捕らえているリキュール。
命無駄にするくらい人間できちゃいねぇよ。
ジムノペディ。
綺麗ね。

覚醒された言葉を待つかのように女は笑って見せた。
そんなのでも善いのよ。
少し苦い味が広がる。
あたしには過去の栄光なんてモノは無いから―――――――――――
煙草に火をつける。
カブトムシ。
死んでしまったら何が残る?
思い出とか、大切だった人とか、何かあるでしょう?
碑。
ミスチリン酸。
橙。
そんなもの何の役に立つの?
落ち着かない瞳。
コウジは一度だってあたしの事見てくれたこと無いよね。



錆びている手摺越しに夕日が沈んでいく。
笑っている哩琉。
繋がらない意識と燃え尽きたキャスターが転がっている。
今日ね、
開いた口から煙が零れる。
お父さんの命日なんだ。 血、繋がってなかったけど。
煙草を棄てた俺を見ながら哩琉は笑った。
あたしね、今までずっと云えなかった。
震えている肩。
恐かった。知られるのが恐かった。記憶なんてじゃまなだけなんだね。
唇―――――――――――――――
「あたし、人殺しだから・・・」

立ち上がる哩琉。
哩琉。
哩琉。
あたしのこと嫌いに成った?
哩琉。
哩琉。
哩琉―――――――――――――――――――――

錆びた手摺に寄りかかる。
背中に未だ消えずに走る痛み。
ゆっくりと歩き出した哩琉の手を掴む。
何も云わず笑っている哩琉。
コウジの事好きだよ。
手を振り払ってから哩琉はそう云った。
寄りかかっていた身体を起こす。
床に塊になって血がたれて行く。
遠くなっていく距離。
少し笑った哩琉。
鈍いかしゃんと云う音。
鉄格子の上から下を見ている哩琉。
無理やり身体を起こす。
激痛が走る。
背骨が軋む。
哩琉の手の感触。
哩琉の手。
小さくなっていく哩琉。
笑っている哩琉。
哩琉。
哩琉。
哩琉――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

新宿の裏に面している静かな住宅街。
ビルの立ち並ぶ中の平穏の一角。
―――――あら、何なのかしらねぇ、昼間から。
声の嵐の中で蠢く物体。
―――飛降り・・・―――
ぶちまけられている血液と理屈では表す事の出来ない片。
茜が包もうとしている町の中は厳に満ちている。
楽園へ。
意味を失った言葉の行き着く先など分かりきったように見える。
其れでもよかった?
格言とはかけ離れた言葉の行き交い。
未だ若かったんでしょ?
女だって。
黄色のテープ。
やだわ。一体何があったんでしょうね。
キモチ悪い。
制服を着ている男。
投げ捨てられる煙草の箱。
オカシイ?
―――えー、関係者以外は下がってください。
ただいま到着いたしました。亡くなったのは横浜市・・・―――――
流れていく血液。
笑い声。
観衆の眼。
忘却を迫られる蝶。
幸せなのか?
お前にとって一番の幸せは其れだったのかよ。
           ――――――幸せに成りに、楽園へ・・・―――――――

警官に囲まれた車内でツキシマとか云う男が喋っている。
お前、何であんなとこに居たんだ?
響く声を耳に貫通させる。
喋りつづける男。
殺したんか?あの女、お前の女だろ?
セヴンスターを取り出そうとした男に別の警官が車内は禁煙ですと告げた。
元へ戻されたセヴンスターを見ながらツキシマは笑った。
あんな見つかりにくいとこで殺しとはな。
約一日経過した遺体の事考えろよと付け足してツキシマは窓の外へ視線を移した。
手にかかっている手錠から錆の匂いがする。
に、してもだ。
再び口を開くツキシマ。
お前の女、何やったか知ってるか?
少し笑いながらツキシマはそう云った。
殺し、やってんだよな。しかも―――義理の父殺しなんだよ。
壁一面に張ってある選挙のチラシ。
なんか、強姦マガイな事されてたらしいぜ。
『みなさんっ!』
だけどよぉ、未だ、ほんのガキのやったことだ。
『地域をクリーンにしましょう!』
何処にでも張ってあるポスター。
一応、名目上事故って事で世間には公開された。
『美しい自然を、そしてより良い未来を造っていく為に・・・』
でも、焼死だったんだよ。学校の焼却炉の中でな。
車が信号で止まる。
青になった横断歩道を子供を連れた母親が渡っていく。
パトカーを差して何か云ってる子供。
手を握り締めて少し小走りになりながら消えていく母親。
再び青になる信号。
少しの衝撃と共に動き出す。
窓の外を見ているツキシマ。
理不尽だよな。
一言だけ告げて再びツキシマは黙る。
其れじゃ、哩琉を殺したのは俺なのか?
窓の外に映っている哩琉の好きだったジャガー。
少し笑ってあたしあれに乗ってみたいなといった哩琉の顔。
キャスターを咥えながら笑っている哩琉。
笑ったままの哩琉。
哩琉。
そうだったよな―――――――――――――――――――――そう、だった――――――――
――――好きだった――――――――哩琉は――好きだったよな―――――――――――――
飛び降りとか。



「あたしたち人殺しなんだよね。」
鞍岐の居なくなった店内に声が響く。
ビリヤード台で先の尖ったままのキューを持ちながら女は溜息をついた。
あたしね、彼氏殺したんだ。
ポケットに入る音。
マルボロを加えながら真剣に台の上を見る女。
あたしを助けて其の侭死んだのよ。あっさり死んだよ。人形みたいに。
灰皿の中へ未だ半分のこっているマルボロが棄てられる。
―――――未来へ転送できる過去を持っているか?
んなこと関係ねぇじゃねぇか。
そうだろ、鞍岐?
半分溶けかかった錠剤を口へと運ぶ。
女の顔。
眼の中に飛び込んでくる生々しい光景。
サカナ。
なぁ、鞍岐――俺間違ってたのか?―――未だ、守るべき女がいるのか?―――是以上、コレイジョウ、―――誰かに死なれるのは――沢山だ。―――居なくなっちまったもの。―無くした色んなものを―どうやって今更―――取り戻したら善い?――――――――――――――――――

コウジ。
新しいマルボロを咥えながら女は俺を見ている。
あたしね、疲れたよ。
椅子に座る。
ホンとに、疲れたの。
笑う女。
アタシヲコロシテ。
俺は―――――――――――――――――――――――――――――――
女の顔。
鞍岐から云われてんだよ。
キャスターを取り出す。
『守る以上はしない。』ただ、全力で守るだけだ。
コウジって変だよね。そう云って女はライターを差し出した。



薄暗い地下道の中を走る。
肩に熱くなってくっ付いたままの血の塊が悲鳴を上げた。
隣を走っている鞍岐はふざけんなよといいながら腕を押えた。
すぐ後ろを女が走っている。
走りながら女は鞍岐の腕を見ていた。
――――――気にすんな。 腕の壱本なくっても実力に差なんてでねぇって。
少し綺麗な床に零れていく液体を見る。
少し得意げな鞍岐は笑って見せた。
―――まさに、腕一本で女を救ったんだよなぁ。
傍にあったアメ車のドアを開ける。
無理やりに鍵を突っ込んで廻す。
振動。
動き出した車内で女は鞍岐の顔を覗き込んだ。
床にたまっていく血液が周りから固まっていく。
後ろから追いかけてきた男たちが銃を構える。
響く銃声。
其れと同時に女は下を向いた。
信号が黄色になる。
アクセルを踏んだ俺に鞍岐は笑って此の侭突っ走ろうぜといった。
絶好調の午前ラグタイム。
合わせて歌っている女。
此の侭―――――――――――――――――――

義務を果たした鞍岐はソファーの上でなくなった腕を見た。
しかし派手に吹っ飛んだよなぁ、そう云って鞍岐はセヴンスターを咥える。
何て云ったっけな。ほら、いつか俺の店に連れてきた―――。
シャワー室に入っていったきり出てこない女。
哩琉の事か?
そう云いながら鞍岐に包帯を手渡す。
赤く染まった包帯が出血の多さをものがたっている。
蛇口を捻る音。
右に。左に?
髪の毛を拭きながら女はかがんで冷蔵庫のドアを開けた。
助けてくれてありがとう。
ビールのふたを開けて女はそう云った。
気にすんなっていったろ?
女守って何が悪いと鞍岐は笑った。

空けられたビール缶が転がっている。
床に落ちながら俺はキャスターを取り出す。
少し疲れた表情の鞍岐は鎮痛剤代わりにモルヒネを取り出した。

「何で病院行かなかったのよ。あんた死ぬわよ。」

影。
暗い、部屋。
残されたもの。
なら、吹っ飛んで跡形無くなった腕は如何説明する?

補うモンなんて何処にだってあんだろ?



綺麗に片付けられた机の上。
其処に書類を投げながらツキシマはセヴンスターを咥えた。
無くなった鞍岐の腕が転がっている気がする。
当時巡査部長だったから、探せば見つかったかもな――――――――――――
笑うツキシマ。
んなモン見つけて如何しろってんだ?
縫合しろってのかよ、そう付け加えてツキシマは書類をまとめた。
はい、草の根を分けてでもお探しいたします。警視―――
笑わせんなよ。お前は、俺の飼い犬だ。
だから――そう云ってツキシマはもう壱本煙草を取り出す。
底の方に溜まっていた屑が床に落ちる。
白い床が汚れる。
脚で掃うツキシマ。
御吸いに成りますか?
少し高くなった声が響いている。
笑い声に混じりながら差し出される煙草。
禁煙じゃねぇのかよ。
細かくなっていく灰。
少し夕日の差している部屋の中で煙だけが移動している。
ツキシマは笑いながら未ださほど吸っていないセヴンスターを灰皿の中へ突っ込んだ。
「俺は、誰の飼い犬でもねぇよ。そうだろ?――鞍岐警視?」
少し詰りながらもう一本もねじ込む。
消えかかっているセヴンスターからニコチンが流れていく。
ツキシマは其れを見て理不尽だと呟いた。

少し離れたところから音が聞こえる。
時間差で響くドアを叩く音。
失礼しますといって入ってくる警官。
今回の事件の報告を致します。
テープレコーダーのように繰返される音――――――――――――――――――

――ええ―――鞍岐元警視の――店で――働いていた女―――――は――この間の―――看守殺害事件で――――看守―――に――殺害された男―――――鉦元 尚夫―――に――殺害されています。――この男は―――山口組系――暴力団員で―――元警視―――も―――この男―――に――腕を―――飛ばされています・・・――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――詳しくはこの資料を参考にしてください。
そう云って男は机の上に整えられた鞍岐の書類の隣に資料を置いた。
失礼しますといって出て行く男。
ドアの閉まる音。
遠ざかっていく足音。
階段の音。

其れを確認してからツキシマは資料を手に取った。
少し汚れの附いている紙が眼にとまる。
たいした事が何も書かれていない事を確認してページをめくる。
新聞記事のようなコメントが書き連ねてある。
『・・・今回の鞍岐元警視に御悔みの言葉を・・・』
なぁ、お前ならなんて云うんだ?
消えていない煙草の匂いが鼻の奥に広がる。
総ては無の為に。
総ては。
笑い声。
夕日の中を蝶が飛んでいくのが見えた。
煙草の火が消えていた。
静かに席を立つツキシマ。
おい、何処に行くんだよ。
脊髄が痛い。
そうだ―――お前に云っとくよ、そう云って振り返るツキシマ。
「禁煙に決まってんだろ?」



絶好調の午前ラグタイム。
其れと、何か物足りない店内でシェーカーを振る女。
朝から入り浸っている客が鞍岐マスター殿は元気かと狂っている。
そんな事解からないわよといいながら女はグラスに移されたジントニックを運んでいく。
店内に置いたままに成っている物。
焦げた写真とか、高そうな額縁に入っている蝶だとか、古びたピアノとか。
鞍岐の生前の様子を忠実に再現している物だけが順々に眼に入ってくる。
再び音を立てるシェーカー。
直伝の音の中で女は何時になったらあいつは帰ってくるんだろうねと呟いた。

今日の酒は格別だったよ。
ジントニックをいい加減飲んだ男は席を立ってそう云った。
しかし、あんたなかなか腕上げたんじゃないのか?
差し出される勘定書。
まぁ、鞍岐サンほどじゃないけどな。
還って来たら教えてくれよといいながら男は出て行った。
少し離れた所に有る花瓶。
其処に差してある枯れた花から少しだけいい匂いがした。
グラスを壱つずつ磨いている女。
所々傷ついたカウンター。
古の過去。
鞍岐、還って来るかな。
吹き終わったグラスを終いながら呟く女。
死んだやつが帰ってくるわけ無いだろ。
そう云って俺はキャスターを取り出した。
そうだよねと云って女は再びシェーカーを手に取る。
心地よいリズム。
注がれる綺麗な液体。
枯れた花を見ながら肺から少しずつ呼気を出す。
あの花瓶いいよね。
差し出された液体。
少し口をつけてから俺は中の枯れている花を取った。
記憶の中にあるモノ。
感覚を揺るがす――――――あれは――――――――――――――――――――――――――
スパラキシスって云うんだって。
そう云って女も液体を流した。
少し熱い店内。
ヒトゴロシ。
スパラキシスの香―――――――――――――――
―――そうだ。俺は何処かでこの香を。―――――――知っている―――――繰返されていた中に―――――イツダッタカ―――俺をコワシタ―――――オレヲコロシタ―――――――――――蝶―――――哩琉?
だけど、そう云って女は花を棄てる。
だけど、少し悲しくなってくるよ。この香。

何台かの車の行き交う音。
其の後に続くドアを閉める音が入って来る。
上々だ―――――――――――――――――――
近づいてくる足音。
気分は最高――――――――
ノブにかかっている手。
此の侭突っ走ろうぜ――――――――――――――――――――――
開いたドアと同時に店内に入ってくる銃弾。
女の叫び声と鞍岐と同じ個所に開いた穴。
勢い良く突っ込んでくる男たち。
鞍岐に弾を打ち込んだ男。
絶好調の午前ラグタイム。
鞍岐の部屋において在った銃を掴む。
心地よい感覚。
指から腕を通って脳を直接揺さぶるモノ。
前を走っている女の肩からの血が床に垂れる。
再び響く銃声。
次々と倒れていく男たち。
其れと同時に身体に走る熱の塊。
抉られた肉と血が転々と落ちていく。
殺されてたまるかよ。

スパラキシスの匂いの風が通る。
野戦病院をすこし廃屋にした建築物。
ねぇ、こんなんでも生きてるって状態にあるの?
血の匂いの充満する部屋で女は笑った。
あんた、なかなかやるじゃない?
口から零れ落ちた血液が固まりに成る。
守られるって気分いいのね。
マルボロにライターを近づける女。
こんな時に煙草なんて吸うなよ。
イイじゃない、どうせ―――――――――――――――――――
眼を瞑る女。
スパラキシスの匂。
忘却を捜し求めている蝶。
あたし、もうダメかな。
其の場に合った言葉を呟いてから女は屋上に行こうといった。

青白い階段が続く。
俺は、前に何処かで。
そう―――――――此処は―――俺が無くした物の―――――記憶倉庫だ―――――守れなかったもの―――哩琉とか、鞍岐とか―――――何か俺を形作ってくれたもの―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――其れから―――其れ――から―――――――

そろそろ―――――
血液と共にはみ出していた煙草が落ちる。
潮時ね。
笑う女。
少し肌寒くなった空気が届く。
何処からとも無く耳に入ってくる風鈴の音。
床に投げ捨てられた銃を見ながら女は笑っている。
此れ、明後日に成ったら開けて見て。
少し赤くなった其れを見る。
冷たい手の感触。
立ち上がる女。
心地よい感覚。
女の腕が、手首が、指先が痺れる。
引き金を引いた女はゆっくりと銃を離した。

あたしね。
喋りつづける女。
こんなんでも幸せだったって云ってもいいな。
笑う女。
未だ涙が出せるくらいには幸せなんだよ。
転がっているマルボロ。
コウジの事好きだから。
金属の擦れ合う鈍い音。
コウジ?
錆の張っている金網越しに女は笑った。
Good−Luck!!!

女の影が消えた空。
笑っている女。
苛まれる意識。
重い感情。
死んだサカナ。

此の侭―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
クローズの掛かっているドア。
この向こうには何が在る?
錆びているノブを掴む。
ひんやりとした感触。
よぉ。
笑いながらシェーカーを振る鞍岐。
何処ほっつき歩いてたのよ。
グラスを壱つずつ拭いている世羅。
古びたビリヤード台の隣に置きっぱなしに成っているスパラキシス。
微かに鼻に残る香。
華やかだったままの店内。
未だ落ちたままに成っているグラス。
派手にやったなと云う鞍岐の声。
血液の溜まっている床。
でもね、なかなかのモンだったよ。コウジのテクニック。
笑う女。
転がっている身体。
ナニガアル?
少しアンティークで好きだった花瓶のカケラ?
焦げた写真?
クラキ?
セラ?
この、向こうには何が在るんだろうね。

再び手の中に在るドアノブ。
きいと云う音を立てて開く。
遠くに聞こえる警察のサイレン。
救急車。
何も無かったかのように歩きつづける。
そうだよ――――――――――何も、何も無かったんだ―――――――――――――――――

前から歩いてきた若い女たちが悲鳴を上げる。
横に成る。
後ろに成る。

新宿の裏通り。
塵箱をしきりにあさっている浮浪者。
茄原?
数人の若者。
嗅ぎ慣れた血液の匂いに混じるキャスター。
与えられていたものはどうなるんだろうね。
隠さないでも善かったのよ。
手に残る感触。
だから、云っただろ?
―――――――――――――――――――お前は、俺のコピーなんだよ?

冷たく風が頬に当たる。
空に成って転がっている空き缶。
小さく泥に塗れているチラシ。
交差点。
ガードレールに括り付けてある花束。
咽喉が熱い。
最後の輝きのように銀色のサカナが跳ねる。
黒い高級車。
降りて来る男たち。
逃亡を強制している本能。
男の手が腕に掛かる。
感触。
一人ずつ眼の前から消えていく男達。
隣で信号を待っていた老婆が声を上げた。
男達の身体が転がる交差点で錠剤を流し込む。
隣で一部始終を見ていた女がよくモノなんて食べれるわねと呟いた。
腹が空けば喰うのは当然なんだろ?
続いて耳に入るサイレン。
世羅から手渡された箱に綺麗に巻いてある包装紙が赤い。
是が欲しいのか?
低く通った声は、高いビルのガラスを通っていく。
落ちているハズれた馬券とか、巨人の優勝を伝える新聞、
其れより熱いモノとか。
過ぎていく群より、通らなくてはならない道の方が些か多い事が実感できる。
近くなってくる電車の音と、狂っている太陽。
不穏の世界が拓けるのとほぼ同時に、デジャヴの心穏の感が降って来て眼を瞑る。
消え失せて行く皺くちゃの思い出から学んだ事。
其れに対応しきっていない俺と飛んで行く蝶だけが眼に入った。
一体何のために俺はこんなに必死になってるんだよ。
止め処なく流れる時間の反復。
増加しつづける罪悪感。

路地の裏手に入る。
今までに何度となく眼に入ってきた高級車。
何も無い其処で車から降りてきた男たちが銃を構える。
ハンマーを起こす。
カートリッジの回転音。
銃声。
奥へ。
肉の奥へと喰い込んで行く弾を感じながら走る。
息が続かない。
焼けるような胸の痛み。
通ってきたばかりの交差点。
再び大通りに響くサイレン。
警官の待ちなさいと云う声。
追ってきた男達の脚が止まる。
影だけを残して消えていた女。
何時に無く酷い血の味が広がっている。
寂びれて半分腐っている商店街。
世間話をしている主婦が見ている。
走りすぎた後から聴こえる声。
―――――――――――――――――――――――――ヒトゴロシ―――――
警察の溜まり場になっている鞍岐の店。
中で指揮を取っているツキシマ。
傍にいた警官が驚いた表情で指を差している。
消えてなくなって行くツキシマの顔。
頭の中で跳ねるサカナ。
再び遠ざかっていくサイレンの音。
誰も居なくなった路地。
下らないアダルトビデオ専門店の角を曲がる。
野戦病院を少し廃屋にした建物が視界に飛び込んでくる。
ヨコからの強い衝撃に耐えながらゆっくりと近づく。
病院のような階段を上がりながらぐっしょりと濡れたシャツを抑える。
高い笑い声のような音を上げて開く屋上の扉。
手摺に寄りかかりながらゆっくりと座り込む。
人間と感情は碌なもんじゃねぇな。
苦し紛れの一言を理解できるほど、意識ははっきりしていない。
総てを決め付けるのには時間が足り無すぎたよな。
眼の前からただ消えていくだけの過去を当然本物などとは思えるはずもなかった。
忘却を探していた蝶は何処へいったんだ?
残された大勇。
そんなもん何の役に立つってんだ?
眼の中に写し出される鮮やかな女とか生のエラー、
頭の中で必死に繋ぎとめられている理性。
相変わらずの風鈴の音が響く中で笑う女。

少し傾いた雲の中の日が茜を産んでいる。
さっきまで赤黒かった包みも、茜に染まっていた。

更新されていく思い出だけが笑っている。
今日とか、明日とか、三日前の事とか。
常に新しくなり続ける文明。
頭からはとっくにそんな物は取り去られていた。
困惑している定。
投入されるワケの分からない言語。
痛覚と云う意識の中で求める事だけが必然の策と考えられる。
其れでも茜は未だ続いている。
必然と聴こえる女の声。

シアワセニナリタイ――――――――
笑っている女の顔。
穴の開いている肢体。
茜の中で揺れる像。
暖かい感触。
鮮明と抽象の間を彷徨っている声。
もう、いい。
開放されていく身体。
これ以上お前が苦しんだって仕方ないだろ?
笑っている鞍岐。
眼の前から消えていく女の影。
届かない残ったままの感触。
誰だったんだ?
誰だ?

ダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレ
ダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダ
――――――――誰だ?
ダレダ、ダレ、アノ女ハ―――――――――――――――

そうだったよな。
残ったまま消える事の無い刺された個所。
好きだったよ、確かに。
屋上とか、飛び降りとか。  哩琉は好きだったよな。
でも―――――――――――。
降り注いでいる光圏。
苦しいくらい言葉が出てこないのを女が笑っている。
もうとっくに居ない女の影。
守るから。ずっと、傍に―――――――――――――――――――――――――――――――
赤黒い床。
黒い酉の群。
段々と近くなっていく女との距離。
スパラキシスの匂。
そうだよ。
あそこで嗅いだんだよ。
お前が飛降りちまった底で。
満足か?
満足だったんかよ。
自分だけ幸せに成っちまって、其れでお前はよかったんかよっ!
立場を超えた意識。
―――――――――――――シアワセニナリタイ
廻る言葉の中で繰返されていくドラマ。
もういい。一緒に行けばいい。
楽園へ。
楽園へ。――――――――――――――――

薄くなっていくスパラキシスも
突き刺さったままの銀色のサカナも
茜になった紙も。

遠くなっていく女の声だけが傍にいるような気がした。
流れてくるジムノペディ。
開けられたままのカード。
読まれたばかりで残された格言。

―――シアワセニ成りニ―――楽園、へ――――――――























HAPPY  BIRTHDAY!!!

            to:Only My LOVER.
               



























       



保存片   『パンドラ既梓』

          
再生された朱雀の翅。

狂おしいほど悲鳴を上げる其れをどんなに待ち焦がれた事か。

其れをそっと包んでいる

僕の手を振り払って

何処へ行こうと云うんだ?

御前は逃げられはしないのだろう

なら、此処にいて

       夢を描いていればいい。

       憧れた「自由」と云う鎖を断ち切ってしまったのだから。

       それでも

       飛び立っていく君を僕は引き止めはしないだろう。

       そっと置き去りにされたままの僕の心を

アークティックの中に浸してくれれば善い。

       其の時また

       君の翼は再生を約束するだろう。












遠くにサイレンが聞こえる。
少し顔を上げて其れを確認する築嶋。
俺は、お前が正しいと思ってるよ。
なぁ、そうだろ?
片付けられるはずも無い書類が机の上に散らばっている。
少し好きだったはずの部屋。
何事も無かったかのようにセヴンスターからは煙が流れる。
人殺しってのはやっぱりみんな死ぬ運命にあるのか?
灰皿にねじ込まれた煙草。
ゆっくりと席を立つ。
今まで座っていた椅子が音を立てる。

ひんやりとしたドアノブ。
掴んでゆっくりと廻す。
何で死んだんだよ、お前ら。
声が跳ね返って耳の奥に届く。
少し視線を上げて築嶋は廊下に出た。
何時もと変わらず少し世羅に似ている女子社員がおはようございますと云った。
制服を着た警官。
何も変化の無い空間。
此れでいいんだよな。
スパラキシスの匂いが広がっている。
刺激される感覚を押えながら築嶋は誰も居ない箱の中へ入っていく。

―――――死んだ者たちの名前を  読み、挙げます。
――――― 未隈 哩琉――二十一才 女。
――――― 茄原 俊――四十二歳 男。
――――― 鉦元 尚夫――三十七歳 男。
――――― 蛎崎 麻奈美――二十二才 女。
――――― 世羅 琉多――二十才 女。
――――― 鞍岐 潤靖――三十四歳 男。
――――― 杉本 浩二――二十二才 男。

此れで全部か?
こんなに死んだって如何って事無いのか?
なら善い。
其の侭で。

椅子が音を立てる。
鉄格子の影が動いていく。
何も無い箱の中で少しずつ無くなって行く匂い。
総てを遠ざけながら築嶋は立ち上がった。
何も知らなくてよかったのは俺なのか。
ローカストの味。
復元されていく感情だけが疼く。
だったら何だって云うんだよ―――――――――――――――――――
ドアの外で聴こえる警官の声。
お前は、ハンザイシャなんだよ。おとなしく全部云うんだ。
ドアノブに手が掛けられる。
入ってくる警官。
犯罪者。
冷たい空気に混じって暖かい空気が出て行く。
一体何のために―――――――――――――――――
ドア越しに聴こえる声。
外にいた女子社員が取り調べはいいんですかと声を掛けた。
笑う女。
イッタイナンノタメニ――――――――――――――――――――
閑散としている社内。
把握できていない意識だけが取り残される。
オマエラハイキテタッテイウンダヨ?

何も無い死んだ女の肌のような廊下。
段々と近づいてくる足音。
けたたましい笑い声。
築嶋君じゃないかっ!
笑っている男。
久しぶりだね。
止めようとしない男。
まいったよ。やっぱり所長となると大変なんだよなぁ。
止めようとしない男。
しかし、よくやってくれた。
止めようとしない男。
「俺は、お前の飼い犬じゃねぇんだよっ!」

階段を上る。
真中に壱本通っている緑のラインを見ながら築嶋は足を持ち上げた。
擦違っていく警官たち。
逮捕しても後から次々とわいて来る犯罪者。
保とうとしても結局は守る事の出来ない安っぽい平和。
もう、沢山だ。

ずっしりとした重みを携えている屋上の扉。
音。
少し寒くなった風が顔に当たる。
遠くなっていくサイレン。
雲が流れる。
風の音に混じる。
スパラキシスの香が広がっている。
だから?
だからなんだってんだよ。
残りの少なくなったセヴンスターを咥える。
ライターの火が小さい。
口の中に広がっていた厭な味を消し去るかのようにタールが肺に吸い込まれる。
凝縮されていく呼吸。
無くなったままのポスター。
『煙草のポイ棄ては止めましょう!』
だから、なんだってんだ――――――――――――――――――――――――――――――
止まらない思考回路。
だけど。俺は知ってるんだよ。
笑う男。
楽園なんてモンあるわけねぇじゃねぇか――――――――――――――――――――――――

















































   『朱ノ言霊 篇』


 楽園――壱 苦しみの無い、安楽な場所。 極楽。
     弐 自由な聖地。




身体が下からの圧力に耐えている。

何も無かったかのように流れる重力。

感じることの出来る快楽。

其れでも、尚、時間が余っている。

笑っている女。

失ったままの大切なもの。

笑っている女。

   届かなかった幾つものカケラ。

   総てを放棄する。

   其れでいい。

   今までに反復されつづけた意識的な行為。

   守れなかったもの。

   其れも、一緒に持っていっても善い。

   何もかも。

   忘却。

   シアワセニナリニ。

   楽園へ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


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